青森出身の両親の間に男三人兄弟の末っ子として生まれました。小学生時代はサッカー大好き給食大好き勉強興味ない(笑)な少年でした。休み時間のサッカーと給食を楽しみに小学校には通って行っていたと思います。両親が青森の出身だったこともあり夏休期間中ずっと青森で過ごしたりもしていました。なので東北弁はヒアリングなら多少イケますww。今思えば東北の地での生活は本当に貴重だったと西日本の広島県福山に住み、より思うようになりました。文化、食文化などはやはり住んでみなければわからない部分が多いと思います。
忘れもしない、小学2年生の夏休み。あっ!また小学生時代ですが(笑)、、。母の実家の青森県木造に一ヶ月過ごしました。母の実家は商売をしておりまして、食料品などが一通りおいてある、今でいえばコンビニwwもちろん駄菓子も置いてある。小学2年生の私にとってはパラダイスwそうまさに楽園での1か月。毎日ポテトチップスやアイスを食べてましたし、スイカも一日1/2個は食べてましたねww。この一か月間は2歳年上の兄と二人で行ってましたから、両親も一番上の兄も埼玉でした。後から聞いたのですが長男が受験勉強に集中したいから青森に飛ばされたのです(笑)w。
小学生時代、、うそうそ(笑)いつまでも小学生時代書いてても進まないのでww、このプロフィールおかわりは私がどんな想いでお店をしているかっていうのを語りたくて書き始めました、そしたらとにかく私っていう人間がどんな経験をしてどんな過去を持って今に至るのかをとにかく思うままに書き残そうと思ったのです。本題は18歳で社会に出たところから、社会にもまれもがいて今いたるまでを書きたかったのです、、、が、その前にww中学生時代。私にとって何とも苦い時期、、小学生時代の少年サッカーからそのままサッカー部に、弱いながらもレギュラーでやってました。でも、私にとってこの時期の記憶はとにかくつらい記憶、いや、大したことではないんですが、思春期の私にとってはとにかくしんどたかった時期。
高校生の時にはバスケ部に入部しました。1年ちょっとでやめましたけど、、、今思えばここで、逃げ癖がついてしまったのかもしれない、、。その後社会人になってつらさから逃げることばっかりしてましたから、ここに書くのも恥ずかしいですが、事実私の弱いところです。高校では笛の発表とか授業でもみんなの前で何かを読むとか発表とかは少なかったので、中学生の時になったあがり症もだいぶ楽になりましたね。部活をやめてからはほぼ毎日アルバイトをしてました。スーパーの青果部門で約2年ほど働きました、飲食業を生涯の仕事にすると思っていたわけではなかったのですが、今となれば、野菜や果物などの旬や価格などなんとなくではありますがこのアルバイトで覚えることができました。学校が終わってからなので、確か5時とか6時くらいから働いていたと思います。
やっと本題といいますか、社会人になってのわたし(笑)。就職先は大手居酒屋、株式会社D庄。(一応なぜか名前は伏せてイニシャルw)何かしたいとか、どうしたいってのが全くなくただ、料理人の仕事って探し方していた時に、「労働省認可の学校を運営」とあり、一年間学校に半日通って、半日仕事っていうシステムにひかれて決めました。本社が東京都大田区の大森にあって、学校もその近く、、、確か、、。南武線の武蔵小杉だったか武蔵新城の寮に入りました。新入社員研修の最終日近くに希望の店舗業態を聞かれて、、たしかぁ選択肢は一番多い海鮮居酒屋D庄か串専門店か刺身居酒屋かいくつかあったと記憶していたのですが、人事の担当の方が、「刺身居酒屋でいままで新入社員で1年続いた人はいない」って言った瞬間、ハイそこに行きますって!!!言ってました。、、もうね、なんなんですかね??自分ではっきり言えますけど、人より根性ないし、忍耐とか、器用なわけでもないのですが、その時、なぜか自信ていうか、やってやる的なのは人一倍あったのです。
最初に就職した会社を半年で逃げだしたってレッテルを張りながら次のステップへと進むのですがその前に、初めて社会人になるにあたって、もう一ついい経験をしていたのです。最初の会社では寮に入っていたのですが、持って行ったのは布団と最低限の生活用品。会社は飲食店ですから賄が出ますので寮にはキッチンはなかったですし、トイレも共同ですからいわゆる4畳ひと間です。そんな新生活の中で私はがっつりテレビっ子世代でしたから、夜帰っても休みもテレビが恋しくなるわけです。あっ!ちなみにそれは新入社員研修の1ヶ月ぐらいの期間の話、現場に入ったらもう寝るだけ、風呂入って寝るだけでした(笑)。
というわけで、私は半年で会社を退社しました。とにかくつらいだけだやめてしまったので、自分が情けなくて、料理の世界が怖くて。一度実家に帰ってフリーターを1年半くらいしてました。私の人生で最高にネガティブな時期でしたね。自分が嫌いで情けなくて、でも何したらいいかもわからなくて不安で、、、でもなぜだか飲食業界で働いてました。好きだったからじゃなくて、いやむしろッ怖くてやだっやのですが、ほかに選択肢を見つけられなかっただけだと思うのですが、ずっと飲食業で働いてました。とにかく毎日ネガティブにすごして1年くらいたったときかな??ふと思ったのです。
新宿調理専門学校は西新宿のアイランドタワーの別館にあり、いわゆる新宿オフィス街のど真ん中!高層ビル群の高さにビビりました(笑)、学校は夜間でしたので夜の18:30〜21:00まで、、(確か)だったと思います。この夜間学校の同級生は10代から50代までほんとに年齢層も目的もバラバラ、私はこの時まだ二十歳でしたから若い方でした。大体の人はサラリーマンをしながら次のステップを考えて夜、残業は断り学校に通っていたと思います。今考えるとすごいなーって思います。で、私は次の学費と、安いとはいえ下宿代と生活費のためやはりアルバイトを探すのですが、学校に近くてしかも深夜帯のアルバイトにしようと考え(時給が高いので)見つけたのが、私の人生の大切なター二ングポイント①となった「ロイヤルホスト」です。
Vol.8の内容にかぶりますが…ロイヤルホストの本店で働き、私は仕事の楽しさとやりがい、そして目標を見つけることができました。それまで過去から逃げることばかり考えていたのですが、気持ちは前向きに(調理学校に入学したタイミングもありましたが)なってました。オープニングスタッフでしたのでみんな(もちろんアルバイトのみんな)が同じスタートラインでトレーニングを受け、グランドオープンの喜びと興奮を味わう経験は特別でしたし、そこからお店を作り上げていく感じも楽しかった。とにかくたのしかったのです、
話はまだまだロイヤルホスト(笑)。私が働かせていただいているときは、季節ごとに「フェア」がありました。年末年始には恒例だった「ステーキフェア」、夏には「カレーフェア」といった感じで、確か年に4回ほどはフェアがあったと記憶してます。その中で私にとって忘れられないフェアが「タイ料理フェア」。それまで和食を中心に居酒屋や洋食レストランなどの業態で働いていて、「タイ料理」なんて食べたこともなかったし、正直興味もなかった。
ロイヤルホストのフェアメニューでの学びはほんとに大きかった。「ステーキフェア」「イタリアンフェア」「カレーフェア」といった定番のフェア以外にも「シンガポールフェア」「タイ料理フェア」といったいろんな国のフェアまでいろいろありました。フェアがあるたびに商品知識をたたき込み、提供する。フェア期間中はお客様に積極的にお勧めするので、スタッフ(クルー)の間でもコンテストとかをして誰が多くフェアメニューを取ったかなんて張り紙したりもしてました。
クルーリーダー。ロイヤルホストではアルバイトスタッフをクルーと呼びその中で、ある一定の時間帯に時間帯責任者としてシフトインする資格のあるアルバイトをクルーリーダーといいます。私は夜間の調理学校に通ってましたから、働くとすれば朝から夕方までか夜から朝まで働くかの2択でした。深夜には手当がつきますから、学費稼ぎに必死な私は深夜帯のアルバイトを探し、オープニングスタッフとして学校のあるすぐ近くにオープンする「ザ・ロイヤルホスト&ステーキハウス」に接客係として働き始め、深夜帯のクルーリーダーとして22時から翌朝の7時まで働いてました。
随分久しぶりの更新となり。プロフィールおかわりのテンションを忘れてしまったのでとりあえず箸休め。筆休めっていうのかな?まぁいい。ロイヤルホストのくだりも飽きてきたけど、まだもう少しロイヤルホスト編は続けたいので、いったん話を変えまして。このころの私(20代前半)はどんな心境、状況だったんだろうと考えてみたいと思う。最初の会社を泣きながらやめて以来、ネガティブだった時から「専門学校に通ってもう一度リセットしよう!」って前向きに働き学校に通っていたこのころ。将来のことは全く考えてなかっかな。とにかく学費を稼ぐことと、楽しくなってきた仕事(ロイヤルホストのサービス)に夢中だったとおもう。
さて。20代前半のはなし。ロイヤルホストには専門学校を卒業した後も契約社員として確か2年くらいは働かせていただいてましたから、1年半の専門学校時代と合わせてだいたい4年ちかくは居たということになります。サービスの仕事が楽しくて「この業界で生きていこう」と思わせてくれたロイヤルホスト。でも不思議なもので、サービスをしているうちに「サービスマンとしてやっていくためには料理を学ぶべきだ!」と思うようになり、だんだんと次の仕事を探しはじめました。もちろん、飽き性でこらえ性のない性格が一番に有ったからですけどね(笑)。で、ロイヤルホストをやめる流れとなったのですが、次の仕事が見つからぬままに月日は過ぎて「とりあえず何かつなぎでしよう!」と始めたのがなんとカラオケボックスのバイト。。
プロフィールおかわりから少し離れて、今2016年夏のお話を。
いま鞆の浦では「鞆の浦ちりめんグルメプロジェクト」と題して、飲食店11店舗が鞆の浦の新名物”ちりめん(しらす)”の商品を期間限定で提案している。水呑町で飲食店をしている私(Boneu)も月一回の「潮待ち・とも軽トラ市」に出店しているので、混ぜてもらっている。いや、じつはこのプロジェクト自体に発案から深くかかわっている。今回はその説明をかねて、私がなぜ「ちりめん」を鞆の浦の名物料理・特産品にしようとしているかってことを、壮大なストーリーとともに(笑)ながなが紹介したいと思います。
プロフィールおかわりは、私が今に至るまでの「過去」を紹介するもの。ですが、「箸休め」と題して、今の気付きや想いをつづったりと自由度を増しつつあります(笑)。目的は私がどんな人間かを可視化してるわけなので本筋からはそれてないと思い、今回の「箸休め②」になります。
つい先日(2016年8月ごろ)ネットであるフレーズを目にしました「新入社員のうつ病」って言葉でした。うつ病?何気なくサイトを開いてみると、「仕事に行けなくなる。行こうと思っても会社の最寄り駅から出れない。」みたいなことがつらつらと書かれてありました。ん?
ミュープランニング&オペレーターズ。サントリーが株主のこの会社は店舗デザイン・設計・プロディースなどを得意とし自社でも直営店舗を展開していました。流行りや傾向を実店舗で計っていくことが会社の使命でもあったので、直営店舗は同じお店は2店舗となく(基本的に)単店舗でそれぞれのコンセプト・形態のお店を展開してました。東京都心を中心に青山・表参道・六本木・渋谷・新宿・池袋・お台場などにお店はありました。私は西新宿のセンタービルの地下1Fの飲食店街にあった「東京キッチン」に就職をなりました。と言っても私はこの「東京キッチン」に直接面接に行き。パートとして採用していただき社員採用となったのは確か半年後だったと思います。会社がどんなことをしているかもほかにどんなお店を展開しているかも知りませんでした。そのことを知ったのは入社して2年目あたりだったと思います。
「振り返ってみれば後悔ばかり」は頑張らなった証拠。東京キッチンで私は自分でマンネリから抜け出そうとせず、ずるずると仕事のやりがいを失っていってました。そんな3年目のころ、アルバイトスタッフとしてある男が入ってきました。私の人生に、かなりの影響を与えてこの男は、私より一つ年下でフランス帰り。私はそれまで和食や創作系のお料理が好きで、いわゆるフランス料理が嫌いでした。その私の変えたのがその男です。彼の仕事は私のそれまでの固定概念(というより無知)をひっくり返して、もう私は虜でした、それからは二人で休みになると一緒に東京の有名フレンチに食べ歩きに。
素敵なお店との出会い。というか素敵な人との出会いがあったお店との出会い。東京キッチンで調理をしていたころ、お酒の味もだんだんと覚え、仕事終わりには飲みに行くことが多くなっていました。日曜日休みのお店でしたから、土曜日の営業が終わり片づけを終えた後はよくお店のみんなで飲みにも言ってましたし、平日でも一人で飲みに出ることもありました。そんなある日、新宿の南口からとほ2.3分の所にある「ビールバー」を見つけました。正確には見つけたというか知り合いにおすすめしてもらったお店。その名は「ビリーバリュースビアバー」通称ビリー。
そんなビリー(ビールバー)での出逢いは私の人生観を変えたと思うし、今も大切な思い出が詰まってます。そして話は仕事へ、、、DENAQUAROOM(デンアクアルーム新宿店)に配属を希望してたのですが、ここでも私は大きな壁にぶつかりました、、、というより、自分の経験不足から「このままではいけない」と異動届を出し新店オープニグスタッフとして配属になったのですが、
で、やめました(笑)
いやぁ、もう辛いとやめるDNAが組み込まれてんじゃないかってくらい、やっぱりやめちゃいました。専門学校に通うことでリセットした自己肯定感もさすがにこの時にゼロになった気がします。
ここでは書きませんが、プライべ―トでもこのころいろいろ重なってしまっていたので、正直このころの記憶は時間軸とか色々曖昧です。思い出したくないんでしょうね(笑)
「飛び込もう!」と決心したフレンチレストランの新世界。選んだのは 私が世界一(自分世界)素敵なお店と思った「レストランキノシタ」です。圧倒的なパフーマンスで憧れや尊敬や異次元の魅力に キラキラして見上げていたレストランキノシタでした。
とはいえ、この業界の常識としてびっくりするくらい給料は安いこと、それに、ヴァイオレンスな世界であることへの恐怖は当然ありました。 それでもなお、決意出来たほど追い込まれていたのでしょう
「丸坊主のサービススタッフ」それもフレンチレストランではまぁ、珍しくはないですが。意味もななく丸坊主にしたことは、たしかで、私の再起を図ったレストランキノシタのスタートはしょっぱなからやらかしたという訳です。
プロフィールおかわりに入ってついに「レストランキノシタ」編になったのですが。実は、この時期のことを書くことに対しては、少し躊躇があります。その理由は、あまりに私の人生に生々しくかかわったいる期間だからです。
わたしはいつも言い訳ばかりで謝ることが出来ない人間なのです。キノシタシェフに、はっきりと「おまえは言い訳ばかりで謝ることが出来ない」指摘され、最初はそのことすら認められず、心の中で「そんなことない」とやっぱり謝ることも、認めることもできなかった。そう。つまりまさにシェフの指摘の通り、わたしは、自分の非を認めたり素直に反省したりが出来ない人間なのです。最低です。
何をやっても失敗ばかりで、、、というより、失敗するから何もさせてもらえない私を、クビにしないで雇ってくれたことに、とにかく今は感謝しかありません。が、当時の私は兎に角、情けなくて悔しくて、、、周りの先輩の仕事をただ見ている半年はそれまでのどんな経験よりも辛かった期間でした。
レストランキノシタ時代の幸せな賄いの話は、置いといて。少しづつ、仕事をさせていただき、すこしづつ前に進むうちに新たな壁が見えてきた。それは「ワイン」。ワインの知識が圧倒的に乏しく、その勉強がほんとに難題でした。ここで私が直面したのは
「勉強する」ということをしてかなかったため机に座って勉強する習慣がないっていう壁でした。自分が好きなことや強く興味があることに対して本を読んだり、調べたりすることは出来ても、教科書を広げて暗記したり理解していくってことがとにかく出来なかった
チーズの勉強や、レストランで取り扱っている食材の生産者さんへ、訪問などで、モチベーションは確実に上がり、意識も前向きになっていったと思います。とはいえ、お店でのポジションは変わらず、でしたが(笑)
それでも、少しずつ、シェフにも先輩にも怒られることは減っていきました。私にとって一番の転機になったのは、新しく入ってきた後輩のまだ18歳くらいの若い子が、やめたいといったときでした。
もう何年このプロフィールを書いているのだろう?(笑)。目的としては「水吞CafeBoneu」を開業するにあたって、どのような想いだったのか?を表現するために始めたのですが、小学生の想い出から書き始めて現在ボリューム26。まだ私の年齢も26歳のころです(ボリューム26と26歳が重なっているのは偶然です)。
さて、話はレストランキノシタで少しずつ居場所をもらい始めていたころの話。