青森出身の両親のもと、男三人兄弟の末っ子として生まれました。小学生時代はサッカーが大好きで給食も大好き、でも勉強には全く興味がない(笑)少年でしたね。休み時間のサッカーと給食を楽しみに、小学校に通っていたように思います。
忘れもしません、小学2年生の夏休み。あっ、また小学生時代ですが(笑)。母の実家がある青森県木造で、一ヶ月間を過ごしました。
母の実家は商売をしておりまして、食料品などが一通り置いてある、今でいえばコンビニのようなお店でした。もちろん駄菓子も置いてある。小学2年生の私にとってはまさにパラダイス、楽園での一ヶ月でしたね。
小学生時代…うそうそ(笑)。いつまでも小学生時代を書いていても進まないので(笑)。この「プロフィールおかわり」は、私がどんな想いでお店をしているのかを語りたくて書き始めました。そうしたら、とにかく私という人間がどんな経験をしてどんな過去を持って今に至るのかを、思うままに書き残そうと思ったのです。
高校生になってバスケ部に入部しました。でも、1年ちょっとで辞めてしまったんですよね。今思えば、ここで「逃げ癖」がついてしまったのかもしれません。その後、社会人になってからも辛さから逃げることばかりしていましたから、ここに書くのも恥ずかしいですが、それが事実、私の弱いところです。
やっと本題といいますか、社会人になっての私です(笑)。就職先は大手居酒屋、株式会社D庄(一応なぜか名前は伏せてイニシャル・笑)。
何かしたいとか、どうしたいという明確な目標が全くなく、ただ料理人の仕事を探していた時、「労働省認可の学校を運営」とあり、一年間学校に半日通い、半日仕事というシステムに惹かれて入社を決めました。本社が東京都大田区の大森にあって、学校もその近く…確か…。南武線の武蔵小杉だったか武蔵新城の寮に入りました。
最初に就職した会社を半年で逃げ出したというレッテルを貼りながら、次のステップへと進むのですが、その前に、初めて社会人になるにあたって、もう一ついい経験をしていたのです。
最初の会社では寮に入っていたのですが、持って行ったのは布団と最低限の生活用品だけ。会社は飲食店なので賄いが出ますし、寮にはキッチンもありませんでした。トイレも共同だったので、いわゆる四畳半の部屋です。
というわけで、私は半年で会社を退社しました。とにかく辛いだけで辞めてしまったので、自分が情けなくて、料理の世界が怖くて。一度実家に戻って、フリーターを1年半くらいしていました。私の人生で最高にネガティブな時期でしたね。自分が嫌いで情けなくて、でも何をしたらいいかも分からなくて不安で…。
新宿調理専門学校は西新宿のアイランドタワー別館にあり、いわゆる新宿オフィス街のど真ん中でした。高層ビル群の高さにビビりましたね(笑)。学校は夜間でしたので、夜の18時30分から21時までだったと思います(確か)。
Vol.8の内容と少し重なりますが…ロイヤルホストの本店で働き、私は仕事の楽しさとやりがい、そして目標を見つけることができました。それまで過去から逃げることばかり考えていたのですが、気持ちは前向きになっていました(調理学校に入学したタイミングも大きかったのですが)。
話はまだまだロイヤルホストです(笑)。私が働かせていただいている時は、季節ごとに「フェア」がありました。年末年始には恒例だった「ステーキフェア」、夏には「カレーフェア」といった感じで、確か年に4回ほどはフェアがあったと記憶しています。
話はまだまだロイヤルホストです(笑)。私が働かせていただいているときは、季節ごとに「フェア」がありました。**「ステーキフェア」「イタリアンフェア」「カレーフェア」といった定番のフェア以外にも、「シンガポールフェア」「タイ料理フェア」**といった、さまざまな国のフェアまで色々ありましたね。
クルーリーダー。ロイヤルホストではアルバイトスタッフを「クルー」と呼び、その中で、ある一定の時間帯に時間帯責任者としてシフトインする資格のあるアルバイトを「クルーリーダー」といいます。私は夜間の調理学校に通っていましたから、働くとしたら朝から夕方までか、夜から朝までの二択でした。
ずいぶん久しぶりの更新となりましたね。プロフィールおかわりのテンションを忘れてしまったので、とりあえず箸休め。筆休めというのかな? まあいいでしょう。ロイヤルホストのくだりも飽きてきたけど、まだもう少しロイヤルホスト編は続けたいので、いったん話を変えまして。
さて。20代前半の話です。
ロイヤルホストには、専門学校を卒業した後も契約社員として確か2年くらい働かせていただいていましたから、1年半の専門学校時代と合わせてだいたい4年近くはいたことになります。サービスの仕事が楽しくて「この業界で生きていこう」と思わせてくれたロイヤルホスト。
随分久しぶりの更新となり、プロフィールおかわりのテンションを忘れてしまったので、とりあえず箸休めとさせていただきます。筆休めっていうのかな?まあいいでしょう。ロイヤルホストのくだりも飽きてきたけど、まだもう少しロイヤルホスト編は続けたいので、いったん話を変えまして。
プロフィールおかわりは、私が今に至るまでの「過去」を紹介するもの。ですが、「箸休め」と題して、今の気づきや想いをつづったりと、自由度を増しつつあります(笑)。目的は私がどんな人間かを可視化しているわけなので、本筋からは逸れていないと思い、今回の「箸休め②」になります。
ミュープランニング&オペレーターズ。サントリーが株主のこの会社は店舗デザイン・設計・プロディースなどを得意とし自社でも直営店舗を展開していました。流行りや傾向を実店舗で計っていくことが会社の使命でもあったので、直営店舗は同じお店は2店舗となく(基本的に)単店舗でそれぞれのコンセプト・形態のお店を展開してました。東京都心を中心に青山・表参道・六本木・渋谷・新宿・池袋・お台場などにお店はありました。私は西新宿のセンタービルの地下1Fの飲食店街にあった「東京キッチン」に就職をなりました。と言っても私はこの「東京キッチン」に直接面接に行き。パートとして採用していただき社員採用となったのは確か半年後だったと思います。会社がどんなことをしているかもほかにどんなお店を展開しているかも知りませんでした。そのことを知ったのは入社して2年目あたりだったと思います。
「振り返ってみれば後悔ばかり」は頑張らなった証拠。東京キッチンで私は自分でマンネリから抜け出そうとせず、ずるずると仕事のやりがいを失っていってました。そんな3年目のころ、アルバイトスタッフとしてある男が入ってきました。私の人生に、かなりの影響を与えてこの男は、私より一つ年下でフランス帰り。私はそれまで和食や創作系のお料理が好きで、いわゆるフランス料理が嫌いでした。その私の変えたのがその男です。彼の仕事は私のそれまでの固定概念(というより無知)をひっくり返して、もう私は虜でした、それからは二人で休みになると一緒に東京の有名フレンチに食べ歩きに。
素敵なお店との出会い。というか素敵な人との出会いがあったお店との出会い。東京キッチンで調理をしていたころ、お酒の味もだんだんと覚え、仕事終わりには飲みに行くことが多くなっていました。日曜日休みのお店でしたから、土曜日の営業が終わり片づけを終えた後はよくお店のみんなで飲みにも言ってましたし、平日でも一人で飲みに出ることもありました。そんなある日、新宿の南口からとほ2.3分の所にある「ビールバー」を見つけました。正確には見つけたというか知り合いにおすすめしてもらったお店。その名は「ビリーバリュースビアバー」通称ビリー。
そんなビリー(ビールバー)での出逢いは私の人生観を変えたと思うし、今も大切な思い出が詰まってます。そして話は仕事へ、、、DENAQUAROOM(デンアクアルーム新宿店)に配属を希望してたのですが、ここでも私は大きな壁にぶつかりました、、、というより、自分の経験不足から「このままではいけない」と異動届を出し新店オープニグスタッフとして配属になったのですが、
で、やめました(笑)
いやぁ、もう辛いとやめるDNAが組み込まれてんじゃないかってくらい、やっぱりやめちゃいました。専門学校に通うことでリセットした自己肯定感もさすがにこの時にゼロになった気がします。
ここでは書きませんが、プライべ―トでもこのころいろいろ重なってしまっていたので、正直このころの記憶は時間軸とか色々曖昧です。思い出したくないんでしょうね(笑)
「飛び込もう!」と決心したフレンチレストランの新世界。選んだのは 私が世界一(自分世界)素敵なお店と思った「レストランキノシタ」です。圧倒的なパフーマンスで憧れや尊敬や異次元の魅力に キラキラして見上げていたレストランキノシタでした。
とはいえ、この業界の常識としてびっくりするくらい給料は安いこと、それに、ヴァイオレンスな世界であることへの恐怖は当然ありました。 それでもなお、決意出来たほど追い込まれていたのでしょう
「丸坊主のサービススタッフ」それもフレンチレストランではまぁ、珍しくはないですが。意味もななく丸坊主にしたことは、たしかで、私の再起を図ったレストランキノシタのスタートはしょっぱなからやらかしたという訳です。
プロフィールおかわりに入ってついに「レストランキノシタ」編になったのですが。実は、この時期のことを書くことに対しては、少し躊躇があります。その理由は、あまりに私の人生に生々しくかかわったいる期間だからです。
わたしはいつも言い訳ばかりで謝ることが出来ない人間なのです。キノシタシェフに、はっきりと「おまえは言い訳ばかりで謝ることが出来ない」指摘され、最初はそのことすら認められず、心の中で「そんなことない」とやっぱり謝ることも、認めることもできなかった。そう。つまりまさにシェフの指摘の通り、わたしは、自分の非を認めたり素直に反省したりが出来ない人間なのです。最低です。
何をやっても失敗ばかりで、、、というより、失敗するから何もさせてもらえない私を、クビにしないで雇ってくれたことに、とにかく今は感謝しかありません。が、当時の私は兎に角、情けなくて悔しくて、、、周りの先輩の仕事をただ見ている半年はそれまでのどんな経験よりも辛かった期間でした。
レストランキノシタ時代の幸せな賄いの話は、置いといて。少しづつ、仕事をさせていただき、すこしづつ前に進むうちに新たな壁が見えてきた。それは「ワイン」。ワインの知識が圧倒的に乏しく、その勉強がほんとに難題でした。ここで私が直面したのは
「勉強する」ということをしてかなかったため机に座って勉強する習慣がないっていう壁でした。自分が好きなことや強く興味があることに対して本を読んだり、調べたりすることは出来ても、教科書を広げて暗記したり理解していくってことがとにかく出来なかった
チーズの勉強や、レストランで取り扱っている食材の生産者さんへ、訪問などで、モチベーションは確実に上がり、意識も前向きになっていったと思います。とはいえ、お店でのポジションは変わらず、でしたが(笑)
それでも、少しずつ、シェフにも先輩にも怒られることは減っていきました。私にとって一番の転機になったのは、新しく入ってきた後輩のまだ18歳くらいの若い子が、やめたいといったときでした。
もう何年このプロフィールを書いているのだろう?(笑)。目的としては「水吞CafeBoneu」を開業するにあたって、どのような想いだったのか?を表現するために始めたのですが、小学生の想い出から書き始めて現在ボリューム26。まだ私の年齢も26歳のころです(ボリューム26と26歳が重なっているのは偶然です)。
さて、話はレストランキノシタで少しずつ居場所をもらい始めていたころの話。
ついに、レストランキノシタ編の最終回です。
それまで「辛いからやめる」を繰り返してきた私でしたから、入る前から厳しいのがわかっている「レストランキノシタ」では
それまでの根拠のない自信は捨てて、、「二年間は頑張る」とタイムリミットを
ほとんどなかった貯金も切り崩しながら働いていたので(レストランキノシタ時代)やめた時には手元に現金はほとんどなく、「さて、家賃どうしようか?」ってくらいの状況だったのですが、「九州横断旅行したい」と、なぜか思い(笑)
そして行きました。
現金2万円しかない状態はさすがに、まずいので(実家に逃げ込んだとはいえ)。
何か仕事しないとなと、思っていた矢先、一本の電話です。
「広島でお店開業したから、手伝いに来て」
「東京キッチン(vol.15あたり)」時代に一緒に働いた、友達からの電話でした。
ついにプロフィールおかわりで「広島県の福山」に来ました。
ながかった(笑)
この広島に来た時は27歳。現在46歳(2023年)ですので20年近く前になりますね。つまり広島に移住してもうすぐ20年です。
実家の埼玉よりも、修行していた東京よりも、広島が一番長くなってしまいました
鞆の浦に魅せられ、福山の観光地としてのハブ的魅力に感動し、食材・気候風土に興奮しながら、ビストロボントレで1年間働かせていただきました。
そんな一年間はどんな時間だったのか?思い出していきます
プロフィールおかわりもvol.31。後半も過ぎて、終わりに近づいているのかも
ビストロボントレでのことは、実はあまり書きたくないし、思い出したくないのも,素直な気持ちです。
私の働く覚悟・甘さで、迷惑をかけたと思うし、友達としての関係も完全には修復出来なくなってしまったから、、、私が広島にきた、きっかけをくれた人であり、料理人として「独立」を考えせててくれて、しかも身近で実践する姿を見せてくれた人であり、、、
ビストロボントレ時代もこの回で最後に。
料理人として働くのも久しぶりだったし、西日本で働くことも初めてだったしで、戸惑いと興奮の毎日だったと思う。
女性が話す備後弁がやたら可愛く感じたし、おじさんの話す備後弁は全く意味が解らなくて、カルチャーショックもうけた。
プライベートでの大きな決断。それは結婚です。
ビストロボントレに来た最初の一週間くらい、スタッフとして働いていた女性とお付き合いをしていたのですが、さて
ボントレをやめるとなると、私としては広島県福山市にいる理由は無く、、、
振り返ってみると、いろいろとでたらめな私の人生ですが、御縁で広島県福山市に永住を決めた決断もまた、なかなかでたらめだったなと思います。
ですが、ずっとでたらめな決断の連続の人生を歩んできてましたので、一週間のつもりが永住になったり、結婚を決意したり、で、無職になることも、私にとってはナチュラルでした。
いざ面接へ。面接をしてくださったのが、「ビストロガリュー」さんが仰っていた、「この人の下なら勉強になる」っていう その人です。
履歴書を渡し、一言二言話したらすぐに、「では一緒に、来てください」って別の部屋へ。「常務理事」と「顧問」と呼ばれる人のところへ案内されました。
社員採用を前提にパート採用として働き始めた「労働会館みやび」(正式には一般社団法人労働会館みやびですが、)。私が配属となったのは、
調理部洋食課レストラン係のスタッフとして。vol.37でも少し話しましたが、「みやび」では、結婚式や法事などの冠婚葬祭行事をはじめ、宴会やビアホールや貸会場などなど、いろいろな事業をしていて、その中で「レストラン」もしていたので
えっもう帰っていいのですか?
「みやび」で働き始めて私が最初にカルチャーショックを受けたのが、勤務時間というか労働体型です。
流石、労働会館だけあって、めちゃくちゃホワイトな勤務体系でした!!!。
それまで私は、いろいろなお店で働いてきましたが、朝8時から夜25時まで働くとかが普通だったので8時間労働ってマジで半休かと思いました。
半分不安になっていた。不安とは、今まで必死にやってきた世界とはまた、違う環境での時間の流れ方。それに料理に対する姿勢の違いといいますか、、、アプローチの違いに自分がなじめるかっていう不安。
そして
不安の対極あったのは、「組織」で働く術を学ぶこと。それに、大箱でのオペレーションやチームビルディングを学びたいって思いです。
正式に社員採用になったその頃、調理部で大きな組織改編がありました。
(調理部だけに限らず会社内でもいろいろと改編があったのだと思いますが、私がその当時、把握できたのは調理部だけでした)
まず、洋食課が担当していた「レストラン」は和食課の担当となること、そして、洋食課の厨房がそれまでの1Fから6Fへ移ること。
そんな、私の弱腰に後悔しつつも新体制になり、新たな船出を切った「洋食課」。新体制になったのはたぶん、調理部だけにとどまらなかったのだと、まだ、「みやび」の全貌を解ってない私でも感じたのは、あふれ出るほどに「みやび」職員全体から発せられる「このままじゃやばいんじゃないの」って空気のせいだと思います
1,生産者(農家さん・漁師さんなど)から直接仕入れる仕組み作り
2,組織作り・チームビルディングの難しさを体感
3,大量調理の経験
前回、書いた、私が「みやび」で大きく影響(成功したと感じる)したと思う3つです。ひとつひとつ紐解いていきます
そんな「トレーニングプログラム」と連動させて作ったのが、「シフト表」。このシフト表の出来栄えを自画自賛するために前書きが長引いてましたが、いよいよです。
6月から8月いっぱいの約3か月間開催するビアホール、その期間のアルバイトのシフト表を作ったのですが、
私の直属の上司(洋食課課長)は、私が洋食課係長になっている時には、企画室室長って役職も兼務し、さらには総務課課長も兼務し始めてました、ゆえに、わたしも、引きずられるようにと言いますか、企画室として、コックコートよりもスーツを着る時間の方が多くなっていったのが、3年目のころ。
企画室として、いろいろなプロジェクトに携わって(ディナーショーとかの各種イベント等々)ましたが、ある「お見合い企画」の準備をしていた月曜日の午後、とんでもないニュースが流れてきました。
2011年の3月11日のことです
起業編スタート。みやびを実質やめたのが2011年8月31日。12月のオープンに向けて残り3カ月。何からやったらいいのか解りませんでしたが、目の前に「今やらないと間に合わない」ことが山住だったので、とにかく毎日忙しかったです。
大まかに準備しないといけなかったことを挙げてみると
「0.開業の勉強」つづき。開業の為の知識を得るには、先輩のアドバイスが一番いい。地域性や、ジャンル、メニュースタイルなどなど、飲食店のスタイルにも、さまざまあり。やらなければならないことや、難しい局面なども様々ですので、開業の知識や問題解決には、同業の先輩(開業している人)に「聞く」ことがもっとも効果的です
起業編
実質3カ月で開業準備をするのが短いのか長いのかは、何をするのか?どこまでするのか?何をしてきたのか?によって変わると思います。
そんな中でも持ち家で開業する以外の場合は
「1.資金調達.物件契約」は大きなアクションの一つです
起業編
いろいろとやらなければならない事がたくさんある中で、最も大切だなと思うのが
「2.コンセプト等」かなと思います。「等」としているので、いろいろ言いたいことがあるのですが
起業編
「3.店舗内装等準備」お店を開業するにあたり、実際には、物件の契約を結び、家賃を支払ってからしか出来ないことばかりです。私の場合は12月5日オープンと決めて、物件契約は10月から結びました。つまり開業まで2カ月間で、ほぼすべての準備を進めるスケジュールです
起業編
「4.スタッフ募集」水吞CafeBoneuは2020年~の567事変から夫婦2人態勢ですが、開業当時はサービススタッフも調理スタッフも募集して、スタッフと一緒に働いていました。そんなスタッフ募集からの出逢いについて
「4.スタッフ募集」のつづき。
店舗前看板、ハローワークのほかにもSNSによる募集も行ってました。当時はFacebookがちょうど経営者などの間でも流行り始めていた時代出したので、スタッフ募集と同時に「開業の告知」の意味も大きかったです。
「5.設備・備品購入」について
居ぬきの物件でしたのでZEROからの準備という訳ではなかったですが、それでも厨房内の設備は古かったり、使いたい備品もやりたいメニューを考えたら買いそろえる必要がありました。
「5.設備・備品購入」つづき。
冷蔵庫に関しては対応年数が10年越えてはいましたが、まだまだ使えると判断できたので、そのまま使わせてもらいました。
が、ガスオーブンはさすがに古すぎたので新調しました。
6.メニュー開発等について。「お店を開業したい」と料理人が思うときは、もちろんやりたいメニューがある状態でしょう。
私もそうでして、今までいろいろなお店で働かせていただく中で、「私ならこの食材でこんなメニューにしたい」とか
「6.メニュー開発等」つづき①
メニュー開発については、いくつか話したいことがあることに気付きましたので、何回かに分けて、行きます。
まずはやっぱり看板メニューである「Boneuチキン」について
「6.メニュー開発等」つづき②
看板メニューも含めてですが、メニューを作るにあたって最初に考えることは「コンセプト」です。お店の内装や装飾品やBGMなどにも当然かかわってくるので、お店の「理念」料理の「コンセプト」は最初にしっかり考えることが重要です